昭和44年04月06日 特別奉修委員



 皆さんもご承知のように長い間外地生活をしました。いわゆる北京におりました。あちらであのう例えば「おはようございます」というて、ご挨拶をするのが「ご飯は済みましたか」と、いうのが「お早うございます」です。「ご飯は住みましたか」「済みました、貴方はいかがですか」とこ言う訳なんですね。ですからと言う程に食べる事に非常に逼迫しておるんですねえ。いつも洪水なんかに見舞われるともうその年は、餓死者が沢山出ると言う程しに、そういう年を昔から繰り返して来ておる訳ですね。
 ですからもうそのう食べるということ食べられるということがね、もう大変最大なあのう幸せだと。だから「貴方ご機嫌用」と言う様な意味なんでしょうねえ。初めなんかこう失礼の様な気がするんですね、こうしていわれると。朝飯食うくさと思いよつたんですけど、しかしそれを言うんですねえ、「チファラマ」とこう言う訳、「ご飯済みましたか」とこう言う訳。それからあのう実際に大阪に行つてみてからたまがる事は、あのう商売人同士の挨拶が「儲かりますか」ということですね。
 「どないです儲かりまっか」というのが第一の挨拶ですね、けれどもこりゃ商売人としてそのうやはり儲かるということは、もう何時もこれから離れない訳なんです。ですから向こうもそれがいつもそれですからそれが挨拶であつて、ひとつも不思議でない訳なんですね。この私共お道の信心させて頂くもの顔見りゃ「やぁおかげ頂きました」というでしょう。もうそのままであり儲かりますかと同じ事なんですね。
 何時も絶えず私共の心の中に、おかげおかげおかげ、おかげというものがあるから、もうついついもうどんな場合でも「おかげ頂きました」。それで信心初めの人が金光様ちゃみんな「おかげ頂きました」と言われるが、どういう意味ですかと言うて尋ねる人がある位におかげ頂きましたをね。泥棒に入られてもおかげ頂きました。お金を無くしても病気をしてもね。例えていうならば大変な不幸な目にあいましても、おかげ頂いてとこういうのです。それでそのう本当に私共思うんですけれども。
 あのうそのうおかげ頂きましてと言うのが、勿論例えば支部の人達が又は大阪の人達が、そのうそういうものが何時の間にか、そういう挨拶になつてしまったものですから、本当に今儲かりますかと言う事に、何時も頭に考えておるとか食べられる食べられないと言った様な事を、何時も考えておる訳でもないでしょうけれども、金光様の御信心もう言う様にね、おかげ頂きましたがもう何というかね、只挨拶だけになったんじゃねいけない。そこんところを時々私共は検討してみなければいけないと思うんですね。
 それで私今朝から思うんですけれどね、お互い心の中に確かにおかげ頂きましたと言えれる内容、いうならば何かおう湿っとりとしたものね。例えばあのう庭石がこう朝露に濡れておるようなね感じ、そういう湿っとりとしたもの自分の心の中に。今朝もあのうここの村内から毎朝お参りして来る 上津役さんという方がおられますね、何時も後ろの方で御祈念されている方なんです。今日ここでお届けされるのに「先生先日あのう、ここにお参りさせて頂いてから、あのう帰らせて頂きよりましたら。
 そこんところの砂利の中にですね、こんなにまん丸い可愛い石が落ちとつたと言う訳なんです。それが皆んなその道が乾いておるにも関わらずですね、これだけは今川の中から上げたように、その水に濡れていたという、何か訳があるのじゃなかろうかと思つて拾うて帰つたというね。「そしてそのそれを綺麗に洗つて紙に包んで、それを拝みよりますがそれでいいでしょうか」と言われる。「そりゃいいですよ」と私いうんですね。本当にあのうおかげは和賀心にありと。
 いわゆる円満な心にありとしかもその円満な心と言うのがね、信心しとりますからおかげ頂きました、おかげ頂きましたというだけの心ではなくて、それがしっとりと朝露に濡れたようなもの、いわゆるまぁしみじみというよりも、しっととりと言つたが一番、今日は感じがね。自分の心が有り難さでしっとりとしておるようなもの。そう言う様なものを私共は、何時も自分の心の中に頂き続けさせて頂きたい。ですからそこん所の頂けるおかげ、を願わして貰わなきゃならんとこう思う。
 どうも渇ききつた様な「有り難うございます」もう、なにかサバサバとパサパサとしたというかね、何かイライラとしながら「おかげ頂きました」ではね、一向その有り難いものが有り難いものとして成つて来ない。どうでもひとつ私共の心の中に、それこそ朝露に濡れた庭石のようなね、しつとりとした有り難さ、そう言う様なものを頂かして頂く意味においてですね、いよいよ本気でおかげを受けなければならんなとこう思う。これは私が信者時代に何時も体験した事なんですけれども。
 ー生懸命の思いで宅祭りをするですね、年にー回ずつ。昔私共は十二月でしたが、もう本当にー生懸命で家族中のものが、親先生にお出でて頂いてお祭りをする。それまでは非常に有り難いんです。ところがお祭りを仕えるとなんかイライラして来るんですね。そして又その後がイライラする事、イライラする事ですね。どういうことだろうかとこう思うです。本当いうなら有り難いお祭り、年にー回の謝恩祭を奉仕して頂くのですからね、それがその、余りにー生懸命だからだろうかでもないようです。
 といってお祭りが済んでやれやれでもないです。けれども確かにそういう様な気が致します。私が昔からでしたけれど、もう誕生日に気分がよかつた日はなかつたんです私は。もう誕生日になると何か腹の立つ事が起こつて来るんです。ようやく誕生日が有り難くなつたのは、ようやくここ十何年か位。もういよいよ今年などは私、あの皆さんにもお話ししましたように「親先生おめでとうございます」とこう言われたら、「はい有り難うございます」であつたのがね。
 あの今度の誕生日はね、皆さん「おめでとうございます」と言われたらね、「おめでとうございます」と、私も言わなければ居られないものを感じるんです。いよいよ本当に誕生日が誕生日としてのですねぇ、この世に生を受けたおかげというものがですね、この様な形で神様の願いに応え奉る事が出来ておると言う事が、「おめでとうございます」になつて来るらしいんです。ですからそのう私達がですね、何かこの沢山なお金でも掛けたり、沢山のこの宅祭りでもさせて頂いたら、お祭りを境にいっちょおかげ頂かにゃならんと言った様なものがあるんですね。
 これだけ毎日お祭りさせて貰いよるから、そのおかげを当然頂かんならん様に思うんですね、これがどうも原因らしいんです、宅祭りを仕えるねぇ。確かに年にーペンのお礼のお祭りと思うとるけれどもですね、それが何かそのもうこれだけの事をするから、おかげもしっかり下さいよと言った様なものがですねどこにかある。それが右が左になつて来るとイライラしたりね、いわゆるこのうパサついた様なものになつて来る。いわゆるしっとりしたもになつて来ない。
 まぁいうならば私のこの四月一日の御生誕「笑い」御生誕と言うと可笑しいですけど、まぁほんに御生誕ですよねえ。「笑い」こう言う事言うから私が人から笑われるとじゃん。親先生御生誕うん、けども本当にやつぱり御生誕と言う。本当にあのね皆んなからも言われ、自分も思える位におかげ頂かにやいけません。こういう心が私はしっとりしたものだと思うんですよね。ですからその私共の心の中にそれこそおかげ頂きましたと、しっかり言よるばつてんどうも渇ききった様なおかげ頂きましたである。
 それに私達がねこのおかげをね、あのうおかげを願うちゃならんじゃないけれどね、願うたら任せるということが大事だとこう思う。今日もある方がお店の再興を願われるんですよね。だからこの事に命を懸けるとこういう訳なんです。だからなるほどそのまぁ失敗した人が、又お店再興に命を懸けるということは当たり前の事、当然の事なんだけれどもね。「00さん貴方はね、そんな事に命を懸けたらいけません」というのは、その事をお願いさせて頂いたらね、その事は末の末の願いと仰るんですよ。
 お商売に例えば失敗して、これからもうーぺん立て直そうとこうしておる方に対してですよ、その願いは末の末とこう仰るです。願うちゃならんじゃないけれども、願いの次の次の願いでいいんだということなんですね。その私共がその願いと言うものがね、浅いというかね、そのう神様の心に響いていくような願いでないと、しっとりとしたものが通うて来ませんですねえ。なにかこうもうそれこそ石にかじりついてでも、この事だけはやり遂げなという事がですよ、自分の中心のいわば店の再興とか。
 自分の中心の願いであつたりすると、どうしてもしっとりとしたものになってこないですね。ゆとりがないね。ですから私その事を関さんの所の例を取りましたんですけどね、例えば関さんが例えばここの御造営ということに、親子三人の者がいうなら命を懸けた。。命を懸けたというと大げさですけども、もうー生一代の内にこげなご造営どんがあると言った様な事は、又と有る事じゃないから、これはもう私共が親子三人ー生懸命この事に懸けなければいけないというて、その事にー生懸命なられたらですよ。
 自分方のご普請の方は、それにただ何かあの憑き物の様にね、それに付いておるもののようにしてから、あんな立派なご普請が出来たということ。最後の例えばここのご造営の献納は、もう或銀行から借りてからでした。けどもそういう様な色んなデリケートな色んな話があるんですけれども、それが縁ですね銀行から金を貸す出してくれる事になつたんです。そしてあのご造営が始まつた。ご造営本当にご造営の延長ですね、と私言いそこないよるばつてん、なかなか神ながらに言い損ないよるとですよね。
 本当に神様のご造営に延長やったなんておぼえんくさ。見てなさい神様の居間なんかでも本当に、まぁよう女手であの事が出来たと私思うんですよ。いわば親子三人女ばつかしじゃんね。あの関さんの根性が、そうさせたというだけじゃない、やはりあの懸けたところが尊いところに懸けとったんです、間違いのない所にね。そこでその自分方のご造営までそれがかどの延長のようにしておかげ受けておる。それを思い立たれたらですね、あれこれの順調さというかね。
 その又順調さと言う事は、まぁ願うた反対に暇がいったと言う様な事もあったんですけれども、その暇がいる事が順調だったんです。だってここじゃほら月のお金ならお金の万事タイミングようおかげ頂きゃならん。そこん所がスムースだったんです。それから例えば、お母さんの方の仕事の多くなった事はもうとにかく今、夜中ですよお参りは親子でもう十一時頃からです。とにかくお店が繁盛してる事してる事。こりゃ自分ながらクタクタになる位に。けれどもお礼だけにはというて11時頃からお参りしてみえます。
 と言う様にですねそのう懸けるところがね、焦点を変えなさらにゃいけませんよと、今日私が自分とこの店の再興にいわば命を懸けるというその事に命を懸けずに、もつともつと遠い遠大な神様の心に出来るだけ近づく、また喜んで下さる所に懸けさせて頂いたら、その事はいわんでも願わんでも、まぁおかげ下さるかどうかは分らんけれどもですね、それが本当に神様の願いであるとするなら、それはもうついてくる。それでそれはねお取り次ぎを頂いたら、願うちゃならんのじゃないから。
 お取り次ぎを頂いたらここへ任せなさいとこう言う事。そしてこの事だけにはー生懸命と言う事に、貴方達はおかげ頂いたらいい、そういうね一つのゆとりと言うものがここに幅がないと、今日私が言うしっとりとしたという有り難さになって来ないんじゃないか。うん今日は皆さんに私は本当に、特にその皆さんの信心にはこのしっとりとしたと言った様なものが、一番求められてる様な気がするんですよね。御大祭を前にしてさぁ今日から又御本部参拝ね。それにはどうでもひとつあのう本当にこうゆとりの有る。
 おかげを頂きましたの言えれるね、信心を頂きたいんだとこりゃ私もそう思うんですけどね、皆さんもそうです。今日のこの合楽の幸若さんじゃないですけども、その丸い石を拝まして頂いて、自分の心の中に丸い心を頂こうと努める。しかもその丸い心が丸い心だけじゃない、しかもこの朝露にこの濡れた様なね、しつとりしたものでありたいね。そういう所に生き生きしたものが生まれてくるんじゃないでしょうかね。生き生きとしたいわゆるおかげが生まれて来るんだと思いますね。
   どうぞ。